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〝「御遺命破壊」についての反論を破す〟との詐言を破折す18

3、〝三、「国主立戒壇」の誑惑〟との邪言を破す

汝は日顕上人の、

「未来における広布の上からの『三大秘法抄』『一期弘法抄』の事の戒壇の目標と、その戒壇の建物というのはいったい、どういうものかと言うと、これは今、論ずるべきことではありません。(中略)要するに、御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の「本門寺の戒壇」ということであります。だから未来の戒壇については「御遺命の戒壇である」ということでよいと思うのです。」(大日蓮平成十六年十二月号六〇頁)

との御指南を

〝「御遺命の戒壇とは御付嘱状の『本門寺の戒壇』だ」では、答えになってない。その「本門寺の戒壇」とは、いかなる時、いかなる手続で、どこに建てられるべきかを、明らかにしなければいけない〟

などと誹謗しているが、先に指摘したように、日寛上人におかれてさえ、戒壇についての具体的な御指南はしておられない。
それを邪眼邪智の汝ごときが

〝明らかにしなければいけない〟

などということは思い上がりも甚だしい。

また日顕上人が汝の「国立戒壇」を破折され、大聖人の御遺命の戒壇とは「国主立戒壇」の意味であることを御指南されたことを取り上げて

〝おずおずと打ち出したのが、「国主立戒壇」である〟

〝思いつきのまやかしだから、全く信念がない〟

などと誹謗する。
天に唾するとは汝のことである。

「国主立戒壇」とは宗祖大聖人の『一期弘法抄』における「国主此の法を立てらるれば」の御金言そのものである。
国主が此の法を立てられることにより、本門弘通の大導師たる日興上人に戒壇を建立せよとの御遺命なのだ。
汝の「国立戒壇」こそ己義我見のまやかしであることは明白ではないか。

汝が主張する「国立戒壇」とは、今日象徴天皇においては不可能とされている勅宣発布を、憲法を改正して可能にし、その上で「勅宣」を発布して行うべきであるとするものである。

しかし、先にも述べたが大聖人が「勅宣」「御教書」と仰せになられたのは、鎌倉時代の政情を汲まれての御指南である。

比叡山の戒壇は天皇の「勅許」のみで建立された。それに対し、鎌倉時代には権力が朝廷と幕府に分散したため、大聖人は「勅宣」「御教書」と仰せられたのであり、それは時代に応じての御指南なのである。

即ち、大聖人は、鎌倉時代の政治形態を将来にわたって固着すべしとされておられたのではない。

また汝は

〝この「国」とは、果して非情国土の意か。ことごとく国家を指しているではないか〟

などと述べ、大聖人の御遺命の戒壇建立は、その主体が、あくまで「国家」であるというのである。
しかし、これが明らかな誤謬であることはすでに述べた。

汝は、大聖人の『三大秘法抄』および『一期弘法抄』の御指南があくまで国家が戒壇を建立するという「国家立戒壇」を志向されたものだと勝手に思いこんでいる。

御金言をよく拝せ。
国家で戒壇を建立せよなどと、どこにそのような文言があるというのだ。

伝教大師の悲願であった叡山の戒壇も、天皇が下したのは勅許であり、戒壇を建てたのは叡山の僧侶である。

大聖人も戒壇建立の前提として「王仏冥合」「勅宣御教書」、ないしは「国主此の法を立てらるれば」等と仰せられているものの、どこにも国家で戒壇を建立せよなどとは仰せられていない。

今日の「国立」の語の意味は、

国が設立し管理していること(広辞苑)

である。しかし、『一期弘法抄』には、

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。(新編一六七五頁)

とあり、国主が正法を立てた時、戒壇を建立せよと、本門弘通の大導師たる日興上人に命ぜられたものである。

文意と「国立」の語とは全く意味が合致していない。
国家が戒壇を立てるという意味になってしまう「国立戒壇」と、御金言とはその本質が違うのである。

さらに前にも述べたが、「国立戒壇」は謗法者の田中智学の創称である。

また「国立戒壇」を言えば、かつて国粋主義者が国家神道を利用して台頭したように、大聖人の仏法が国家主義的なものであるかの如く誤解をうける。
大聖人の仏法はあくまで、一人から一人への折伏を根本とし、一閻浮提の一切衆生救済を目指すところにある。その目的達成の上に「国立戒壇」を目標に掲げる必要はないばかりか、誤解や弊害を招くだけである。

そのような語を今日用いる意味はなく、また我見をもってそれに固執することも当然計我謗法に当たる。

また汝は、大聖人の「国」についての様々な御指南を挙げているが、どれも全く見当違いである。

一例を挙げれば『神国王御書』の、

仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に付きて国もほろび、人の寿も短かかるべし(新編一三〇一頁)

との御指南も、結論を言えば、衆生に対して、仏法の受持を勧めらたものである。また汝が引用する『立正安国論』の、

国は法に依って昌え、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし。(同二四四頁)

の御文は、主人の教誡の文ではなく、客の問いの中の文である。念仏者である客の「先ず国家を祈りて」等の問いに対する主人の答えは、

早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし。(同二四七頁)

である。即ち国家安穏を期す為には、先ず謗法の人を破して衆生が正法を受持せよというものである。同じく汝が引く『立正安国論』の、

帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。(同二四九頁)

との文は、

汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。(同頁)

と続くのである。

汝が引くいずれの御指南も、国家安穏の為には立正が肝要であることを述べられるところに主眼があるのであり、御本仏の大慈大悲の上から衆生に正法受持を勧められ、衆生の現世安穏後生善処を願われた御指南である。
即ち「立正安国」の仰せも、安国の前提、邪を破し正を立てるのは衆生であり、衆生が仏法を受持する結果として、その国土が安穏になるとの意である。つまり、大聖人の国についての御指南も、その全ては衆生に仏法の受持を勧められたものなのである。『一生成仏抄』に、

衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。(新編四六頁)

と御指南される如く、国土の安穏とは、その国土に生活する衆生の正法受持の功徳により、現れる実相であり、国家に仏法の受持を勧められたものではないのである。

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メタボは謗法退治の謗法破折もせずに、悪いのは宗門と学会だけにして、そして国家権力にこだわった戒壇にしようという我見ばかりなんですよね

だから毎回同じ指導になる

顕正会のつまらなさは、メタボの我見をヨイショばかりしてるからつまらないんですよね
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2010-12-25 : あっつぁの顕正会体験記 : コメント : 0 :
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プロフィール

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Author:あっつぁ
もと顕正会男子部支隊長だった
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破折ブログと言うよりは
顕正会の内情暴露のブログですので
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肩肘はらずテキトーにご覧ください

そして全員で顕正会の内部を暴露して参りましょう
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